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馬場・猪木時代

長らく(といっても約10年ぐらいだが)日本国内のプロレス団体は力道山がつくった日本プロレスだけだった。
1966年に東京プロレス、翌年国際プロレスが誕生したが、1967年に猪木が日本プロレスに復帰したことにより東京プロレスはつぶれ、日本プロレスは馬場・猪木の2枚看板で絶頂期を迎える。

そこで、「ダラ幹」と呼ばれていた役員の連中が欲をかいた。
ずっと日本テレビだけが放送していたものを、1969年からテレビ朝日(当時は日本教育テレビ)も放送することとなった。
おなじみの金曜8時に加え、月曜8時からも観れるということで、プロレスファンは大喜び。
といっても、俺が住んで居た所はネット局がなく、実際に観れるようになったのは1971年からだったが。

2局になる時点で日本テレビ側は大いに不満だった。
当時はまだまだ確実に高い視聴率が取れる番組だったのだ。
そこで、馬場と坂口は月曜日の放送には出さないということが、日本プロレス側と取り決められた。
これにより、日本テレビは馬場がエース、テレビ朝日は猪木がエースという路線が既定事実となった訳である。

日本プロレスにしてみれば放送権料が増えた訳だから、1シリーズの外国人レスラーの人数も以前とは比べものにならないほど増えた。
しかも、馬場と合うタイプと猪木と合うタイプを混在させるから、ファンとしては嬉しかった。

しかし、たまたま猪木が馬場の方のメイン相手をシリーズ途中でピンフォールしたりするなど、なかなかスリリングなことが多かった。
例えば第12回ワールドリーグ戦は、前年とは違って盛り上がりに欠けたのだが、それはリーグ戦の中で猪木が外国人エースのドン・レオ・ジョナサンを完璧に破ってしまったために、決勝の馬場対ジョナサン戦の興味が薄れてしまったことが大きい。
その他、UNタイトル戦で、当時次期NWAチャンピオン候補ナンバーワンといわれていたジャック・ブリスコを2対1で明確に決着をつけたために、後年馬場がブリスコからNWAのベルトを奪ったときも、猪木ファンは冷淡だった。

そんな状態の中で、1971年9月、馬場、猪木が同じ相手とベルトを懸けて戦った2連戦が記憶に深く残っている。
相手は、「鉄の爪」フリッツ・フォン・エリックだった。(つづく)
by ojiji-houdan | 2006-03-30 22:42
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by ojiji-houdan
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